お墓の歴史と変化
墓地・お墓と歴史の関係お墓の歴史は古く、紀元前にはネアンデルタール人(発掘:フランス南西部)が埋葬された形跡が見つかったことから、死者を祀り供養する習慣があったと考えられる。 縄文時代後期から晩期(4000年~2300年前)には、日本各地で既に集落の中央に墓地と祭礼の広場があり、埋葬が行われていた(図2)。 弥生時代になると、貴重な土地は住居もしくは農地に利用され、山地や乾燥地など住居や農地に適さない土地が埋葬地として選ばれた。この時代には死者をそのまま埋葬するのではなく、甕(かめ)などの土器に納めて埋葬するようになった(図3)。瓶の周りに溝が掘られたものや古墳が形成されたことから、目に見える形で死者を埋葬する「お墓」の誕生はこの時代だと考えられる。 日本で文献記録に残る最古の火葬は飛鳥時代に僧の道(どう)昭(しょう)が遺言によって火葬された事例(『続日本記(しょくにほんぎ)』より)であるが、それ以前にも火葬が行われた形跡が存在しているため、火葬の起源は明らかとなっていない。 江戸時代初期になると、貴族階級や武士の間で個人が墓を所有し始めるが、実際に埋葬された場所とは別の場所に「祀り墓(まつりぼ)」を設ける(両墓性)が一般的であった。江戸時代中期には檀家制度 が確立し、庶民の生活の中に供養や葬儀、墓などが定着し始めた。江戸時代後期には戦いが減り、経済が発展すると共に庶民がお墓を持つようになっていった。 明治時代末期に制定された「墓地及埋葬取締規則(1884年)」によって火葬の普及が進み、1つの墓に何人も埋葬する、家族墓が生まれた。第二次世界大戦後には墓参りが普及し墓が先祖を供養する場として認識されるようになった。 高度成長期以降、都市への移住が加速し、お墓が遠方にあるなどの理由から、お墓の管理が困難になり、居住地の近くに新たに墓を購入するなど墓を継承しない傾向が生まれ、先祖代々の墓という考えから、一代限りの個人墓に考えが回帰する傾向にあるのではないかと考える。 また、背景でも述べたようにお墓を作らないケースも増加しておりこの場合は将来的にお墓の管理をする必要がなくなることが最大のメリットであると考える。「家族」より「個人」が優先される傾向にある現代において、個人がお墓や埋葬方法を選択できることは重要なポイントである。
お墓の形式から見る歴史平安時代に、唐から帰国した空海が真言宗を開き、日本仏教を確立した。この時期に供養塔として建てられたのが五輪塔(ごりんとう)である(図5)。五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(しゃり)(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれている。その後、五輪塔の形状を模した木板(卒塔婆(そとうば))(図5)から派生した板碑(いたび)が生まれ、室町時代には、仏の形を模して蓮台などの上に戒名を記した墓石を配置した形状や、仏壇そのものを簡略的にかたどった形状のお墓が生まれた。江戸時代中期には庶民にもお墓が普及し始め、お墓の形状は簡素化され、現在最も普及している和型(わがた)三段(さんだん)墓(ぼ)が一般的な形状となった(図6)。 戦後、お墓の土地不足が大きな課題となり、公園墓地等の普及に比例し、洋型オルガン型(図7)やプレート型(図8)などの洋風の形状が増加した。洋型が増加した背景には、和型のお墓より省スペースで建てられるため、土地不足の解消に有効だったことがひとつの要因として考えられる。また、お墓のコンパクト化はさらに進み、ロッカー式墓地(納骨堂)(図9)などといった立体墓地が誕生した。ロッカー式墓地は都内の寺院等の霊廟にあり、価格的には郊外の墓地より高価だが、購入者のお墓を選ぶポイントは雰囲気のよさ、アクセスのしやすさが上位を占めている(第7回お墓の消費者全国実態調査より)ため、人気が出ている。 平成に入ると、コンパクト化に加え、継承の必要がないなどのメリットがあることから、集合(しゅうごう)墓(ぼ)や共同(きょうどう)墓(ぼ)(図10)など他人と入るお墓の形式がつくられ始めた。集合墓や共同墓は既に都心に多く建てられており、自然と調和を図った新しい発想のお墓として注目されている。

